水呑み百姓の呪縛

 

 

私の中に根強く残る「できない」という前提は、いったいどこからやってくるものなのだろう?

そんなことがふと頭をよぎった朝

 

 

 

そして、思い浮かんだのが

父がよく使っていた「水呑み百姓」という言葉。

 

 

 

彼は十代の早いうちに父親を亡くし、兄と二人で農家の仕事を引き受けることになった。

 

 

農家だから土地はあった。

馬もいた。

で、農家だから米を作る。

 

 

 

周囲の大人が、父を亡くした未熟な兄弟に入れ知恵をする。

しかし、その全てが必ずしも好意的なものではない。

 

若い兄弟は悪意を含んだ「アドバイス」という名の嫌がらせに直面する

 

 

そんなわけで、彼は農業をすることを嫌い、

二男だったということもあったと思うが、土地を捨てて故郷を出て都会の暮らしを選んだ。

 

 

 

父はとてもアトラクティブな風貌をしていた。

 風貌だけではなく、常に人のことを先に考える、思いやりのある穏やかな人だった。

 

さぞかし女性にモテたのではないかと想像する。

 

 

しかし、彼の言葉の端々には、今思うと自虐的な要素が満載だった。

そして、自己犠牲という体のいい逃避術を使って、事実と対峙することから逃げていた。

 

 

成績も優秀で級長をしていたという話は、

父の妹たちが、兄を自慢するためによく話していた昔話の一つだった。

 

でも、父親が死んで、大学進学は諦めた。

仕事に就いてからも、大卒でないことへのコンプレックスが拭えずにいた。

 

ある程度の地位について、取締役になっても

部下が大卒だということに引け目を感じていた。(ように見えた)

 

 

 

あれだけのハンサムな容姿で、賢い頭を持っていたのに、

どうして自分を過小評価し続けてしまったのだろう。

 

 

そんなところで引け目を感じる必要ななかったと思うし

もうどうにもならないことをいくら嘆いても仕方がないことくらい

彼も重々承知していたはずなのだと思う。

 

でも、自虐は彼の奥深くに残り続けていた。

 

 

 

 

 

この間、娘とボーイフレンドの間で繰り広げられていた

privilege(特権)に関する議論に口を挟んだ。

 

 

娘は今フェミニズムのクラスで、ジェンダーについて学んでいる。

それに取り組む娘の中に、

”男に負たくないの、女だからってバカにしないでね!”と片意地張っていた

若かりし頃の自分の姿を見たりするのだが、話が逸れるので今回はそれはおいておいて、

privilegeについての議論に戻ろうと思う。

 

 

 

この議論になぜ割って入ったのかというと、

娘がボーイフレンドの家は裕福で、その特権でフロリダから遠く離れたカリフォルニアで大学に通い、

メディカルの道を目指すことを許されていると、

それだって立派なprivilege じゃないかと主張していたから。

 

 

 

 

おいおい娘よ、それは単なるベネフィットじゃないか、と

私は感じたのだ。

 

特権と言ったら、もう自分の力ではどうにもならない力が働いて起こるものだと私は思っていたから。

 

例えば、江戸時代の士農工商とか、中世の貴族世界とか、インドのカーストとか、

そんなものの中で生きていたら、大学に行けるお前は特権を行使していると言えると思う。

 

 

英語での論争で娘を上手に納得させるだけの語学力を持たない者の悲しさ。

夜も更けてきたこともあり、決着がつかないまま議論は終了となった。

 

 

そしてこの議論の間じゅう、私は父を思い浮かべていた。

 

 

 

 

今でこそ、先祖からの土地は、その上に建つアパートのおかげで不労所得を産む資産となって

父の長兄の息子たちを潤しているけど、

父が育つ当時は、土地があってもそこからの収穫がなければ無に等しかった。

 

水呑み百姓と表現した父の言葉には、やるせない無力感が滲み、

どうせ自分は、、、という強い自己否定へと導かれていったのだろう。

 

 

 

変えられるものと変えられないものがある。

父の水呑み百姓の呪縛は、変えられないものだったのだろうか?

 

 

 

父は変えられないと信じていた。

でも、本当は彼の意識の中にだけ存在していたものだと

今の私にははっきりそう伝えれあげられる。

 

生きているうちには言ってあげられなかったけど。

 

 

そう、

その前提、変えられるんだよと、私が父を納得させられた時、

私が父から受け継いだ「私になんかできっこない。。。」という

自己否定の呪縛も解けるのだと思う。

 

 

 

 

 

聖なる予言を読んでから、家族のことを考える。

 

 

自分が望んでその両親の元に生まれてきたなんて信じてなかったけれど、

望んだかどうかは別として、そこに生まれることに意味があって、

彼らの人生を統合することが私の使命なら、彼らについて考える時間も必要なんだということは納得できた。

 

 

そう、それは私の根源がある場所なんだ。

良い意味でも悪い意味でも、常に引き戻される場所。

 

 

そこで学んだことを、

ありのまま、

ああ、そういうことかと

意味付けをせずに受け取れたら良いのだけど、

そこに自己否定や欠乏感がくっついて

struggle する感情が生まれてくる。

 

 

 

今日は、マヤ暦では「青い夜」の日。

無意識への扉が開く日だそうだ。

 

そんな日の私の中では、父も母も、地球にはいないけど側にいる存在となって感じられる。

 

 

 

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