儀式は意識

 

 

肌にポジティブストロークを送ることを再確認して、

肩をいからせないで生活することをリマインドしてる私だが、

いかに自分の体を愛おしんでいなかったかと、肌と姿勢に思い知らされた。

 

 

 

 

 

毎日、いちいち頼まなくとも、内臓はせっせと生命維持のために働き、

足は一歩ずつ前に進んで、私を目的地へと運んでくれるし、

10本の指は、パソコンのキーボードの上で文字を叩き出し、箸を持って食べ物を口に運ぶ。

 

 

それを当たり前だと思って、ねぎらうこともないって

何という恩知らずなんだ。

 

 

他人が私にそんな態度を取ったら、さぞかし憤慨してその人を嫌いになるだろうな。

 

なのに自分は自分にそういう態度を取っているんだねぇ。

 

 

 

 

 

 

この間、ロスで仲良くしている友達が、

シャーマニックヒーリングを受けてきた話をしてくれた。

 

 

シャーマンのヒーラーは、儀式を勧めてくれたんだとか。

 

儀式と言っても、別に何やら怪しげなアクションをしろってことじゃない。

 

 

一つ一つの所作に、心を込めて向き合えっていう意味だと思う。

 

 

この話を聞いていて、私は空まで飛び上がるほどぶったまげた。

 

 

「女性はマルチタスクが得意なのよね~、

同時進行で家事をこなしていかないと時間が足りないでしょ~」

多くの女性がこんな風に考えて、マルチで物事をこなしていると思う。

いや少なくとも私は、これってとても素晴らしい、スーパーなことだとずっと思い込んでいた。

 

 

頭の中では、あれもこれもと、同時進行でたくさんのおしゃべりが繰り広げられる。

そしていつしか、スマホをいじりながら食事をしたり、
誰かと話しながらも夕食の献立を考えていたり、
同時進行で行動をすることになる。

 

 

しかし、子育てにこれを適用したら、痛いしっぺ返しをくらって、

マルチタスクって、必ずしも時間の節約になるもんじゃないって痛感した私。いや、文字どおり痛かった。

 

 

 

 

何かの動作をする時に、そこに心を込める、

感情を乗せて物事に取り組む。

これを儀式って呼ぶことにしてみるというわけだ。

 

 

 

 

人は意識していないとついついおざなりの心しか乗っけられずに、

ついつい意識が分散してしまうもの。

 

 

心ここに在らずというけど、仕事の段取りを気にしながら

子供が一生懸命伝えようとする感動をまっすぐに受け止められるものではない。

 

 

 

 

 

儀式っていうのは、宗教的な意味合いでは、

思想を行動として表すものになる。

 

 

神社に行けば、柏手を打って、二礼、二拍手、一礼をしたり、

クリスチャンが十字を切ってアーメンっていうのも

儀式の一つだと思う。

 

そうやって、行動をトリガーとして、心を込める意識を喚起するのだと思う。

 

 

 

 

 

話してくれた友人は、それからというもの、コーヒーを飲むのにも

しっかり感謝をするようになったと言っていた。

 

 

 

 

コーヒー豆を栽培して、収穫してくれた人から、

それを輸送して、店に並べてくれた人、

いろんな人の手を経て、自分の喉を潤すコーヒーがやってきてくれた。コーヒーに感謝するだけでなく、思い浮かんだ人たちにちゃんとお礼をいうのだという。

 

 

それで、彼女は「サンキューコーヒー」という本を書きたいと言っていた。

 

 

 

感謝をして心を込める。

全てが”有る事が難い”、有り難いありがとうの出来事なのだ。

 

 

 

小さな行動を儀式のように扱うと、心を込める意識が高まってくる。

自分の存在そのものにも、ありがとうと言える心境になってくる。

 

 

そんなことを思いながら、今日はゴールデンカフェラテという

ジンジャーがミックスされたラテを注文してみた。

 

サンキューコーヒーの気持ちで味わっていただくことにする。

 

 

 

 

儀式というのは、意識することであり、リマインドすること、そして続けること。

そうして私たちは、思考を習慣化することに成功するのだと思う。

 

なかなか習慣として定着しないことがあったら、儀式にして心を込めてやってみるのもいいかもね!

 

 

 

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