100万回死んで100万回生きる

 

 

今日は 、マヤ暦の「白い世界の橋渡し」の日。

 

 

 

 

 

 

橋渡しというのは、

自分とは異質のものとのつながり、

他者との関わりが出来てくることのようだ。

 

コミュニケーションが生じてくるというのと同じかも。

 

 

 

なのに、この日は「死」というテーマを持つのだとか。

 

 

新しい世界とつながり、新しい関係性ができるのに、なぜ「死」になるんだろう?

 

 

 

私は、「死」を、肉体の死としてしか捉えていなかったのかもしれない。

 

 

そうじゃなくて、

 

自分が変わるとき、

 

今まで大事にしていたものが本当は足かせだったり、

フェイクの殻だったりしたことに気付いた時、

 

 

もうそこでは生きてゆけなくなって

人は死ぬんだ。

 

 

 

それはとても厄介なこととして目の前に出現するのかもしれない。

 

試練とか不遇とかいうものとしてやってくる「死」は

やはり禍々しい。

 

 

変わるための機会として、

チャンスとして、

贈り物として

わざわざ私の元へともたらされたとしても、

がなぜこんな災難がわたしの身の上に降ってくるんだって

最初は恨みがましく思ってしまう。

 

 

私なんか、変わるためのoppotunityを神様からもらうのに

アメリカまで来ちゃった訳だ(汗)

 

 

環境も何もかも激変して

もう同じ自分でいたら、文字通り生きていけないような状況になった。

 

こまで大掛かりなことをされちゃうと、もういい加減覚悟を決めろよ!ってことなんだろうけど、

自分が陥った状況を、最初からありがたいなどと思えるはずもなく、

全て

人が、周囲が、環境が、と

自分以外のせいにして、恨み続けていた。

 

 

 

 

 

人は何回死ぬのだろう。

 

今までの自分と別人になるために、

何度脱皮をくり返し、

何度メタモルフォーゼするのだろう。

 

 

テレビゲームで、死んで最初からやり直しっていう場面があるけど、

人生そんな簡単にチャラにならんだろ、って思ってた。

 

いや、待てよ。

 

肉体の死だけにこだわらないなら、案外簡単にチャラにできるのかもしれない。

 

 

 

死は再生に結びついていくはず。

今まで慣れ親しんできたものを全てを手放す。

 

 

そう、それはこだわりを捨てるってことなんだね。

 

こだわり、つまり執着。

 

 

中毒症状のように執着して、手放せずにいたものを捨てる。

優劣や善悪のレッテルを貼ってきたものを剥がす。

優れているのも劣っているのも、

悪いことも良いことも

どちらも同じ、どちらでもいい。

 

 

 

これなら、100万回生きた猫と、生き返った回数自慢が出来るかもしれないな。

 

 

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